人はなぜ入れ歯を嫌うのか

 

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はじめて入れ歯を入れたとき、「人間は何とすばらしいものを作ったのだろうか」と感動する人は、まずいません。「入れ歯なんて嫌だなあ」とか「とうとう自分も年寄りの仲間入りか」とガッカリする人が大半です。

入れ歯を嫌がる人は、おそらく老いに対する嫌悪感があるのだと思います。老いとは衰えることで、衰えの象徴として入れ歯を嫌うわけです。

しかし、人はみな例外なく老いていきます。その事実から目を逸らしても、将来生じるであろう問題の解決にはなりません。「自分は必ず老いる」という事実を直視して、その準備をしておく。それが現実的な対応でしょう。入れ歯を「嫌なもの」だと考えるのは、「健康寿命は延びなくてもいい」と考えるのと同じです。

40代、50代で入れ歯を使うことを恥ずかしいと感じる人もいます。「同世代はみんな自前の歯なのに……」と、劣等感を持ってしまうのです。

しかし、歯が抜けるスピードには個人差があります。たとえば、同じ45歳でも、総入れ歯になっている人もいれば、すべて自前の歯という人もいる。この違いがどうして出てくるのか、突き詰めて言えば、体質の違いです。つまり、若くして歯が抜けた人が劣っているわけではないのです。老いてなおすべて自前の歯という人が優れているわけでもありません。

テレビの健康番組などで、元気なお年寄りが「若さの秘訣」を語っているシーンを見かけることがあります。そのときに出るのは「腹八分目しか食べない」とか「くよくよしない」といった話です。しかし医学的見地から言えば、長寿というのは体質です。

たまたま、そういう体質に生まれてきただけ。たまたま、そういう遺伝子を持っていただけ。努力で防げる病気はたくさんありますが、その人が生まれ持った体質は、努力では変えられません。

歯についても同じことが言えます。70歳、80歳になっても自分の歯で食事ができる人がいる一方で、50歳を前に総入れ歯になってしまう人もいる。これは一概に努力の差ということではありません。そして、歯が失われていくスピードは、人の優劣を決めるものではない。人より早く入れ歯になったとしても、恥じる必要はどこにもないのです。

林裕之

人類史上初の総入れ歯を作ったのは日本人

総入れ歯が初めて作られたのは、16世紀頃です。エジプトの遺跡から発掘された2本の大臼歯が人類初の「入れ歯への挑戦」だったとすれば、総入れ歯の原理が発見されるまでに約4500年という気が遠くなるような時間が費やされたわけです。
 

もっとも、総入れ歯の原理は、とても単純です。入れ歯と口腔粘膜がすきまなく接していれば、落ちてこない——。ただそれだけです。
「すきまなく接していれば落ちない」と聞いて不思議に思う人もいるかもしれません。

しかし、二枚のガラス板を水に濡らしてくっつけると、ぴったり貼りついて落ちてこないことは、誰でも知っていると思います。入れ歯もこれと同じです。唾液が「二枚のガラス板をくっつける水」の役割を果たし、口にぴったりと吸い付いて安定するのです。
 意外なことではありますが、人類史上、初めて総入れ歯を作ったのは日本人です。

前出の『入れ歯の文化史』によれば、現存する最古の総入れ歯は、和歌山県の願成寺というお寺に納められていて、これは1538年に亡くなった尼僧が使っていたものだそうです。亡くなったのが1538年ですから、それ以前から総入れ歯が使われていたわけです。
 

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この総入れ歯は木製ですが、構造は現代の総入れ歯にかなり近いものです。先日、あるTV番組がこの入れ歯を再現し、実際にものが食べられるかどうか、実験をしていました。そのときに実験者が食べたのは煎餅で、結果は「どうにか食べられる」というものでした。ですからこの入れ歯は、実用品だったと考えられます。
 

木を削って、口腔粘膜にぴったり合った総入れ歯を作るのには、もちろん高度な技術が必要です。おそらく仏像彫刻の専門家が作っていたのだろうと、笠原先生は推測しています。
 

腕のいい職人が作ったものは、かなり使い勝手が良かったようです。これは江戸時代の話ですが、国学者の本居宣長は、晩年に木製の総入れ歯を入れ、「不都合なく噛めるから、若返った気分になった」という手紙を息子に宛てて書いているそうです。
 

とはいえ、これは例外的なケースだったと思います。江戸時代に「使える総入れ歯」が作られていたのは事実ですが、その当時は裕福でなければ入れ歯を作れなかったでしょうし、腕のいい職人に巡り合えなければ、歯にまつわる苦労は避けられなかった。

歯茎をいい状態に保つためのノウハウも今日よりずっと貧弱でしたから、お金があっても、腕のいい職人を見つけられたとしても、使える入れ歯を手に入れられないケースはたくさんあったはずです。こうして考えてみれば、私たち現代人は実に幸福であると言えます。

林裕之

5000年前の「入れ歯」

 歯は臓器の一つ——。そう言ったところで、納得しない人も多いかもしれません。たとえば肝臓が機能しなくなれば、それは生命の終わりを意味しますが、歯が一本抜けたくらいなら命に別状はありません。すべての歯が抜けても長生きする人はいます。

 これは、人間の適応能力が動物よりもずっと優れているからです。人間は、歯が抜けて硬いものが食べられなくなったとき、柔らかいものを探して食べることができます。

硬いものしか手に入れられなければ、それを火で加工して柔らかくすることもできる。さらに人間は、社会全体で弱者を守ります。年寄りや病人、体のどこかに障害がある人を、まわりが助ける。ですから、歯がすべて抜けても長生きをする人は大昔からいました。

しかし、そういう人たちが何の支障もなく暮らしていたかといえば、おおいに疑問です。支障なく暮らしていた人も中にはいたでしょうが、それは例外中の例外だったはずです。理由は単純で、これだけ便利になった世の中でも、歯がない生活にはさまざまな不自由がともなうものだからです。

事実、人間は大昔から抜けた歯を補おうと苦労を重ねてきました。松本歯科大学の笠原浩先生が著した『入れ歯の文化史』(文春新書)によれば、約5000年前の古代エジプトの遺跡から、金の鎖で結ばれた二本の大臼歯が出土しているそうです。

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鎖で結ばれていたのは、どちらか一方の歯がグラグラしていて噛みづらかったためでしょう。不安定になっている歯を、鎖で健康な歯に固定したわけです。むろんこれは正確には入れ歯ではありませんが、歯がない状態を改善しようとしている点で、入れ歯に類するものだと言えます。

パリのルーブル美術館には、およそ2500年前の古代フェニキア遺跡から出土した「入れ歯」が保存されています。これは、抜けた歯と健康な歯をハリガネで繋いだものです。自前の歯を「土台」にして、抜けてしまった自分の歯を括りつけたわけです。

むろんこうした「入れ歯」には噛む機能はほとんどありません。主な目的は、見た目をよくすることだったようです。

歯が抜ければ容貌は変化します。奥歯が抜ければ顔の輪郭が変わるし、前歯が抜ければ年齢より老けて見えたり、滑稽な顔つきになってしまったりする。王様や将軍にとって、これは一大事だったに違いありません。おそらくそれは、政治生命の危機につながったはずです。

王様や将軍から寵愛を受けていた女性にしても、前歯が抜けて美貌が失われれば、みじめな立場に追い込まれたでしょう。そのような人たちのために抜けた歯を補う方法が発達したのだろうと、笠原先生は述べています。

しかし、抜けた歯を繋げる方法では、土台になる歯が抜けてしまったら手の打ちようがありません。古代の入れ歯には、噛む機能がほとんどないという大問題のほかにも、土台となる歯が抜けたときにどうするか、という問題もあったのです。

この問題は、近世になるまで解決されませんでした。その後も人類はさまざまな入れ歯を作っていきますが、抜けたところを人間の歯、あるいは動物の歯で補うという方法は、長く変わらなかったのです。

すべての歯が抜けてしまった人は、抜けたままの状態で生きていくしかなかった。そこに相当な苦労があったことは想像に難くありません。

林裕之


第1章 あなたの「入れ歯」はなぜ合わないのか

——「使える入れ歯」を手に入れるための第一条件とは——

健康寿命と平均寿命 健康寿命という言葉があります。「寿命」の上にわざわざ「健康」という冠が載せられているのは、介護などを必要としない健康で自立した生活ができる年齢のことで、日本人の健康寿命は男性で72.3歳、女性で77.7歳。平均寿命は男性78.3歳、女性85.2歳。(2004年調査)つまり6〜8年のギャップがあるのが現実なのです。

 健康を失えば、日常生活に支障が出ます。毎日の暮らしに苦痛がともなうことも珍しくありません。ですから健康寿命は、一年でも長いほうがいい。健康寿命と平均寿命をぴったり一致させるのは不可能だと思いますが、平均寿命を延ばすことよりも、健康寿命を延ばすことのほうが大切でしょう。

国家財政という観点から見ても、健康寿命と平均寿命とのギャップは大問題です。国が負担している医療費が、国家財政を大きく圧迫しているのは周知のとおりですが、さまざまな医療費のうち、最も大きな割合を占めているのは、健康寿命が終わった人たちへの治療費です。

健康寿命を延ばすことは、国家財政という点からも、人間の幸せの追求という点からも、国民全体が抱える大きなテーマです。

しかし、こと歯に関して言えば、健康寿命は平均寿命に限りなく近づけることができます。なぜなら、歯が失われても入れ歯で補えるからです。

入れ歯というのは人工物ですから、天然歯に比べれば機能が劣ります。天然歯とまったく変わらない入れ歯は存在しません。いわんや天然歯以上の入れ歯もありません。しかし私たち歯科医は、食べるのに支障がない入れ歯、話すのに支障がない入れ歯なら、条件さえ整えば提供できます。

 逆に言えば、死ぬまで健康に生きていくためには、入れ歯は必要不可欠です。もしこの世に入れ歯がなかったら、大半の人が歯にまつわる苦労に耐えながら生きることになる。ものを噛み、食べることは生命を維持するための根本的な活動ですから、入れ歯がなければ、健康寿命ばかりか平均寿命も大幅に縮まるでしょう。

野生動物にとって、歯の喪失は「死」に直結しています。草食動物も肉食動物も、成獣になったらずっと同じものを食べますから、歯が抜けて食べられなくなれば、遠からず死に至る。

動物と人間はもちろん違いますが、それでも根本は同じです。生きていくためには食べなければならず、食べるには歯が必要です。歯は、生命を支える重要な「臓器」なのです。

林裕之

『いい入れ歯・悪い入れ歯 』 | 「いい歯茎」が「いい入れ歯」につながる

「いい入れ歯」を手に入れるために必要なことには、もう一つ、患者さんの肉体的条件もあります。簡単に言えば、それは歯茎の状態の良し悪しです。

入れ歯というのは、粘膜と接する面積が広いほど安定するものです。ですから、歯茎の土手(顎堤)が高く、凹凸のないなだらかな状態だと、ぴったりとフィットする入れ歯を作るのは比較的簡単になります。逆に、土手が低い歯茎、デコボコしている歯茎だと、そこに合う入れ歯を作るのがむずかしくなります。

一般に、「合わない入れ歯」ということが言われます。何軒もの歯科医院を訪ね歩き、いくつも入れ歯を作ったけれど、どれも合わない——。そんな嘆き声を、みなさんも耳にしたことがあるのではないでしょうか。しかしその一方で、初めて作った入れ歯を、何の苦労もなく使いこなしている人もいます。

 これを入れ歯の値段による違いだと考えている人が少なくないようです。保険の入れ歯は安いからダメで、自費の入れ歯は高いからいいだろう、というわけです。しかし実際には、保険で作った安い入れ歯でも、口にぴったり合うケースはたくさんあります。自費で作った高い入れ歯が合わないケースも珍しくありません。

 これはつまり、入れ歯の良し悪しを決めるのは値段ではなく、技工士や歯科医の能力だということです。いい入れ歯を手に入れるには、それを作ってくれる歯科医院を探さなければならないわけですが、それ以前に必要なのが「歯茎をいい状態に保つこと」です。

歯茎をいい状態で残せば、保険であれ自費であれ、口にぴったりフィットする入れ歯を手に入れられる確率が高いと言えます。

歯茎をいい状態で残すために必要なことはいくつかありますが、一番大きいのは適切なタイミングで抜歯をすることです。歯があるレベルを超えて悪くなったら、抜歯によって歯茎を守らなければならないのです。

歯周病にしても虫歯にしても、末期まで放置しておくと、そのダメージは歯槽骨の広い範囲にまで及びます。前述のとおり、歯槽骨というのは「歯を支える骨」で、ここが大きく溶けてしまうと歯茎は低くなります。溶けたのが一部分なら、凹みができてしまう。

ですから、虫歯や歯周病が再発をくり返しながら進行していったときは、治療と平行して抜歯のタイミングを計らなければなりません。そして、適切と思われる時期が来たら、歯を抜き、そこを入れ歯に置き換えます。

基本的には、抜歯は最終手段です。歯は極力抜くべきではありません。しかし、抜かない歯科医が名医かといえば、そんなことはありません。なぜなら、問題のある歯を必要以上に長く口にとどめておくことでも、咀嚼システムのバランスは狂うからです。

虫歯や歯周病が進行して、まともに噛めない状態が続けば、咀嚼システムのバランスは狂い、他の歯にも悪影響を与えます。抜歯のタイミングが遅れれば歯茎の状態が悪くなり、入れ歯という人工物を使って咀嚼システムを安定させることもむずかしくなります。

くり返しになりますが、歯は「系」の一部、システムの一部です。歯が失われ、それを入れ歯で補ったときは、入れ歯が「系」や「システム」の一部として働きます。ですから、顎・口腔系のストレスをなくし、咀嚼システムを維持安定させることは、残っている歯の本数に関係なく、大切なことです。

歯を長保ちさせるため、いい入れ歯を手に入れるため、そしていい入れ歯を手に入れたあとも、咀嚼システムを安定させる必要があるのです。「歯は消耗品である」という事実への対処法は、突き詰めれば、咀嚼システムの維持安定という一点に集約されるのです。

以上のことをまず頭に入れていただければ、いざ入れ歯を入れなくてはならない状態に陥ったとき、あなたに合った「使える入れ歯」イコール「いい入れ歯」を手にする可能性がぐんと高くなることは間違いないと思うのです。

林裕之