人類史上初の総入れ歯を作ったのは日本人

総入れ歯が初めて作られたのは、16世紀頃です。エジプトの遺跡から発掘された2本の大臼歯が人類初の「入れ歯への挑戦」だったとすれば、総入れ歯の原理が発見されるまでに約4500年という気が遠くなるような時間が費やされたわけです。
 

もっとも、総入れ歯の原理は、とても単純です。入れ歯と口腔粘膜がすきまなく接していれば、落ちてこない——。ただそれだけです。
「すきまなく接していれば落ちない」と聞いて不思議に思う人もいるかもしれません。

しかし、二枚のガラス板を水に濡らしてくっつけると、ぴったり貼りついて落ちてこないことは、誰でも知っていると思います。入れ歯もこれと同じです。唾液が「二枚のガラス板をくっつける水」の役割を果たし、口にぴったりと吸い付いて安定するのです。
 意外なことではありますが、人類史上、初めて総入れ歯を作ったのは日本人です。

前出の『入れ歯の文化史』によれば、現存する最古の総入れ歯は、和歌山県の願成寺というお寺に納められていて、これは1538年に亡くなった尼僧が使っていたものだそうです。亡くなったのが1538年ですから、それ以前から総入れ歯が使われていたわけです。
 

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この総入れ歯は木製ですが、構造は現代の総入れ歯にかなり近いものです。先日、あるTV番組がこの入れ歯を再現し、実際にものが食べられるかどうか、実験をしていました。そのときに実験者が食べたのは煎餅で、結果は「どうにか食べられる」というものでした。ですからこの入れ歯は、実用品だったと考えられます。
 

木を削って、口腔粘膜にぴったり合った総入れ歯を作るのには、もちろん高度な技術が必要です。おそらく仏像彫刻の専門家が作っていたのだろうと、笠原先生は推測しています。
 

腕のいい職人が作ったものは、かなり使い勝手が良かったようです。これは江戸時代の話ですが、国学者の本居宣長は、晩年に木製の総入れ歯を入れ、「不都合なく噛めるから、若返った気分になった」という手紙を息子に宛てて書いているそうです。
 

とはいえ、これは例外的なケースだったと思います。江戸時代に「使える総入れ歯」が作られていたのは事実ですが、その当時は裕福でなければ入れ歯を作れなかったでしょうし、腕のいい職人に巡り合えなければ、歯にまつわる苦労は避けられなかった。

歯茎をいい状態に保つためのノウハウも今日よりずっと貧弱でしたから、お金があっても、腕のいい職人を見つけられたとしても、使える入れ歯を手に入れられないケースはたくさんあったはずです。こうして考えてみれば、私たち現代人は実に幸福であると言えます。

林裕之

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