歯は臓器の一つ——。そう言ったところで、納得しない人も多いかもしれません。たとえば肝臓が機能しなくなれば、それは生命の終わりを意味しますが、歯が一本抜けたくらいなら命に別状はありません。すべての歯が抜けても長生きする人はいます。
これは、人間の適応能力が動物よりもずっと優れているからです。人間は、歯が抜けて硬いものが食べられなくなったとき、柔らかいものを探して食べることができます。
硬いものしか手に入れられなければ、それを火で加工して柔らかくすることもできる。さらに人間は、社会全体で弱者を守ります。年寄りや病人、体のどこかに障害がある人を、まわりが助ける。ですから、歯がすべて抜けても長生きをする人は大昔からいました。
しかし、そういう人たちが何の支障もなく暮らしていたかといえば、おおいに疑問です。支障なく暮らしていた人も中にはいたでしょうが、それは例外中の例外だったはずです。理由は単純で、これだけ便利になった世の中でも、歯がない生活にはさまざまな不自由がともなうものだからです。
事実、人間は大昔から抜けた歯を補おうと苦労を重ねてきました。松本歯科大学の笠原浩先生が著した『入れ歯の文化史』(文春新書)によれば、約5000年前の古代エジプトの遺跡から、金の鎖で結ばれた二本の大臼歯が出土しているそうです。
鎖で結ばれていたのは、どちらか一方の歯がグラグラしていて噛みづらかったためでしょう。不安定になっている歯を、鎖で健康な歯に固定したわけです。むろんこれは正確には入れ歯ではありませんが、歯がない状態を改善しようとしている点で、入れ歯に類するものだと言えます。
パリのルーブル美術館には、およそ2500年前の古代フェニキア遺跡から出土した「入れ歯」が保存されています。これは、抜けた歯と健康な歯をハリガネで繋いだものです。自前の歯を「土台」にして、抜けてしまった自分の歯を括りつけたわけです。
むろんこうした「入れ歯」には噛む機能はほとんどありません。主な目的は、見た目をよくすることだったようです。
歯が抜ければ容貌は変化します。奥歯が抜ければ顔の輪郭が変わるし、前歯が抜ければ年齢より老けて見えたり、滑稽な顔つきになってしまったりする。王様や将軍にとって、これは一大事だったに違いありません。おそらくそれは、政治生命の危機につながったはずです。
王様や将軍から寵愛を受けていた女性にしても、前歯が抜けて美貌が失われれば、みじめな立場に追い込まれたでしょう。そのような人たちのために抜けた歯を補う方法が発達したのだろうと、笠原先生は述べています。
しかし、抜けた歯を繋げる方法では、土台になる歯が抜けてしまったら手の打ちようがありません。古代の入れ歯には、噛む機能がほとんどないという大問題のほかにも、土台となる歯が抜けたときにどうするか、という問題もあったのです。
この問題は、近世になるまで解決されませんでした。その後も人類はさまざまな入れ歯を作っていきますが、抜けたところを人間の歯、あるいは動物の歯で補うという方法は、長く変わらなかったのです。
すべての歯が抜けてしまった人は、抜けたままの状態で生きていくしかなかった。そこに相当な苦労があったことは想像に難くありません。
林裕之
