ある患者さんが19組もの入れ歯を持っていた理由

Aさんの入れ歯

健康寿命の終わりと聞いたとき、たいていの人は、寝たきり生活をしているお年寄りをイメージすると思います。介護が必要で、なおかつ回復の見込みがない人は、もちろん健康寿命が終わってしまった人です。しかし、「生きていくのが苦痛である」という点においては、寝たきり生活の人たちも、一日一食しか食べていない人たちも、同じです。

そこまでのレベルではないにしても、使えない入れ歯によって健康寿命が終わるケースは他にもあります。
たとえば、50歳ですべての歯を失った人がいたとします。足腰は丈夫、内臓も健康、だけど歯は1本もない、というケースです。

 もしもその人の入れ歯が不良品だったら、どうなるでしょうか。当然、食事をするときには入れ歯を外さなければなりません。歯茎だけを使って食べることになる。したがって、外食はまずできなくなります。

 友達に「旅行に行こう」と誘われても、「入れ歯を外して食べている姿を見せたくない」という心理が働くはずです。旅館の通常メニューは食べられませんから、事前に「食事はミキサーにかけて出してください」と注文しておく必要があります。そうまでして旅行に行きたくないと思うのが、人間の当たり前の心理でしょう。

 つまり、歯を失い、手もとにある入れ歯が使えないとなると、足腰が丈夫でも、内臓が健康でも、自由に出歩けなくなってしまう。広い意味では、これも健康寿命の終わりです。

「使えない入れ歯なら、また新しく作り直せばいい」

 そう思う人もいるでしょう。しかし使える入れ歯を手に入れるのは、簡単ではありません。

 以前、私の患者さんに、19組の総入れ歯を持っている人がいました。19回も入れ歯を作り直したけれど、どれもこれも使えず、わざわざ飛行機に乗って私たちの歯科医院を訪ねてきたのです。

19組の入れ歯は、同じ病院で作ったのではなく、いくつかの歯科医院で作ったということでした。その人は、食事に使える入れ歯を求めて歯科医院を転々とし、それでも手に入れられなかったのです。

19組も入れ歯を持っている人はさすがに稀ですが、2つ3つ持っている人ならザラです。新しい入れ歯を作りたいけれど、経済的な余裕がなくて我慢している人もたくさんいます。前回までに紹介した老人ホームのお年寄りのみなさんも、おそらく何度か作り直したのでしょう。しかしそれでも使える入れ歯が手に入らす、仕方なく「歯茎で食べる生活」を始めたのだと思います。

入れ歯が合わなくて困っている人は、大袈裟ではなく、日本中に数えきれないほどいます。「入れ歯=合わないもの」というイメージは、歯が一本も抜けていない人たちでも持っているのではないでしょうか。入れ歯への偏見が根強いのは、使えない入れ歯が多い、ということも多分に影響しているはずです。

林裕之


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