『いい入れ歯・悪い入れ歯』 | 「いい入れ歯」と咀嚼システムの関係

さて、顎・口腔系のストレスを抑え、咀嚼システムをバランスのいい状態に保っていても、歯の寿命が尽きる日がやって来るのは自然の摂理です。

そして、いよいよ入れ歯を入れることになるのですが、この時、こうした顎・口腔系や咀嚼システムの状態の良し悪しが、「いい入れ歯」を手に入れられるかどうかを決定付けると言っても過言ではありません。

 入れ歯というのは、ただ口に入れるだけのものではないからです。

 「いい入れ歯」と聞いたとき、多くの人たちは人工物として精密なものを想像するのではないかと思います。もちろんそれは間違いではなく、「いい入れ歯」の物理的条件というものは存在します。

具体的には、噛み合わせの状態が適切であること、噛み合わせの高さが適切であること、口にぴったりフィットすることなどが、「いい入れ歯」の物理的条件です。

 ところが、そうした物理的な条件を満たしている入れ歯でも、口に合わないことがあります。咀嚼システムのバランスが悪くなっていると、入れ歯そのものに問題はなくても、「合わない」ということが起こるのです。

たとえば、左側の歯列だけでものを噛む癖のある人がいたとします。その癖を治さないまま、左側の歯列に入れ歯を入れたら、どうなるでしょうか。

その圧力は、入れ歯を通じて、歯茎や粘膜に加わります。結果、歯茎や粘膜に痛みが出て、入れ歯を外さざるを得ないケースが出てきます。咀嚼システムのバランスが悪いと、物理的にきちんと作られた入れ歯でも、使えなくなる恐れがあるわけです。

 こうした事態を引き起こす顎・口腔系のストレスには、大きく分けて次の6つがあります。

1)噛み合わせの不調和

2)顎関節の動きの不調和

3)顎運動の不調和

4)歯を食いしばる癖

5)口腔内の痛み

6)口腔に対する意識過敏

これらの顎・口腔系のストレスについて、詳しい説明は次章以下に譲りたいと思いますが、ともかく大切なのは、できるだけ早い時期にこれらの問題を解決しておくことです。

できれば、歯の喪失が始まる前に、歯科で検査を受けるべきです。問題が見つかったらそれを排除し、問題がなかったときはその状態を維持するのが理想的です。

もちろん、顎・口腔系のストレスを排除するのに、遅すぎるということはありません。気づいたときにすぐに実践することが肝要です。また、上に挙げた6つのストレスを排除し、咀嚼システムをバランスのよい状態に保つことは、けっしてむずかしいものではありません。

林裕之

『いい入れ歯・悪い入れ歯』 | 顎口腔系のストレスが、歯の寿命を縮める

顎・口腔系と咀嚼システム。二つの専門用語が現れて、いささかとまどった人もいるかもしれません。しかし、この二つについて理解することは、歯の寿命をまっとうさせるために欠かせないことです。

歯の寿命を縮めているものは何か、ひとことで言えば「顎・口腔系のストレス」です。顎や顎関節、舌、そのまわりの筋肉・神経などがストレスを受けていると、咀嚼システムのバランスが狂って、歯がダメージを受けるのです。

咀嚼システムのバランスが狂う——。これは簡単に言えば、左右均等に噛めなくなる、ということです。

たとえば、上顎右側の親不知が痛くなったとします。これを放置しておけば、右の歯列は痛みでうまく使えなくなります。簡単に言えば、左側の歯列だけで噛むようになる。

すると、噛み方に偏りが出て、特定のポイントにストレスが集中します。

左右均等に噛めなくなったため、それまで歯列全体にバランスよく分散していたストレスが、一部分に集中してしまうわけです。他よりも大きなストレスを受けた歯が早くダメになることは、すでに説明したとおりです。

 同じように、噛み合わせに不調和があるとき、顎運動に不調和があるとき、顎関節の動きに不調和があるときなども、顎口腔系はストレスを受けます。多かれ少なかれ、それは咀嚼システムのバランスを狂わせ、ストレスの集中を起こします。

 顎・口腔系のストレスには、もう一つ、「噛みしめ」もあります。噛みしめというのは、「歯を食いしばる癖」のことです。一般によく知られているのは眠っているときの歯ぎしりですが、起きて活動しているときにも、無意識のうちに歯を食いしばる行為がくり返されるケースがあります。

 グッと強く歯を噛みしめたときの圧力は、およそ50Kgだと言われます。それほど大きな力が頻繁に加わっていれば、歯はもちろん、顎・口腔系全体がダメージを受けます。

それが咀嚼システムの急激な変化につながることは当然ありますから、歯を長保ちさせるには、噛みしめが起こらないようにする必要もあります(噛みしめの対処法は後ほどで詳述します)。

 くどいようですが、虫歯も歯周病も、歯磨きでは完全に防げない。したがって、いくら歯を磨いても、それだけでは歯の寿命をまっとうさせることはできません。歯磨きが大切だという考え方は、「歯は人体の一部」という事実から離れているように思えてなりません。

なるほど、歯を単なる物体として捉えれば、清潔にするのが一番かもしれません。しかし歯は、「系」の一部であり、システムの一部です。歯の寿命をまっとうさせるために最も大切なのは、顎・口腔系のストレスをなくし、咀嚼システムをバランスのいい状態に保つことなのです。

顎・口腔系のストレスを取り除き、咀嚼システムのバランスをよくする。歯周病にしても虫歯にしても、それが最大の予防なのです。

林裕之

『いい入れ歯・悪い入れ歯』 | 咀嚼システムとは何か

前回述べたとおり、「噛む」という行為は、顎・口腔系全体の連動です。その連動は、きわめて複雑なものです。

たとえば、顎はただ上下に動くだけではありません。前後左右、斜めにも動きます。噛むときの力加減、タイミングもさまざまですし、舌の動きのバリエーションも無数にあります。それぞれの器官の動きが適切に組み合うよう、全体を統制しているのは脳ですが、ものを食べるときに脳が出す指令も、数限りなくあります。

こうした複雑な連動を、咀嚼システムといいます。歯、顎、舌、顎関節、筋肉などの連動は、「システム」と呼ぶにふさわしい複雑なものであるわけです。

咀嚼システムはまた、生まれたときから備わっているものでもありません。長い時間をかけて経験を重ね、学習し、その連系を獲得、成熟させていくものです。

私たちは、食事をするときに「どうやって噛もうか」とは考えません。「これから食べるのはステーキだから、強くたくさん噛もう」とか、「次に食べるのは豆腐だから、ごく軽く噛むだけにしよう」とは、いちいち考えない。しかし私たちは、ステーキも豆腐も、適度な強さ、適正な回数で噛むことかできます。

なぜそんなことが可能なのかというと、幼い頃から「噛む体験」を重ねてきたからです。人はみな成長するにしたがってさまざまなものを食べるようになりますが、その一つ一つはトレーニングであり、学習なのです。

これは、歩行運動に喩えればわかりやすいと思います。生まれたばかりの赤ちゃんは歩けませんが、トレーニングを重ねていくうちに歩けるようになります。

ハイハイから掴まり立ち、掴まり立ちからヨチヨチ歩きという具合に、ステップアップしていく。その過程で、「左右の足を交互に出さないと転ぶ」とか「強く地面を蹴ると、速く歩ける」といったことを無意識のうちに覚えていきます。

咀嚼もそれと同じで、脳は何かを食べるたびに学習をしていきます。「ステーキは強く噛まないと飲み込めない」とか「豆腐は弱く噛むだけで飲み込める」といったことを、ものを食べるたびに学習していくわけです。学習によって得た知識は、情報として脳に蓄積され、次の動作に反映されます。咀嚼システムは、その膨大なくり返しによって作られていくのです。

学習のプロセスは、人によって違います。歯の大きさ、顎の大きさ、歯の生えている角度なども人それぞれに違う。ですから、その人の咀嚼システムは、その人固有のものです。

また、咀嚼システムがおおよそ完成するのは、永久歯があらかた生え揃う14〜5歳頃ですが、これは正確な意味での完成ではありません。なぜなら、「噛む経験」はその後もずっと続くからです。おおよその完成を見た咀嚼システムは、さまざまな変化に対応しながら、死ぬまで適応を続けていきます。

林裕之

 

『いい入れ歯・悪い入れ』 | 歯を長保ちさせたいなら

歯を長保ちさせたいなら、口全体を大切にする必要がある

ところで、いずれは入れ歯を入れざるを得ないにしても、それはできるだけ先にのばしたい、自前の歯を少しでも長持ちさせたいと願う人は多いかと思います。
 

もちろん歯の寿命そのものは延ばせませんが、寿命を縮めるファクターを排除し、本来の歯の寿命を全うさせることは可能です。それが自前の歯を長持ちさせることと同じになると思うのですが、そのためにはまず、「歯は人体から独立したものではない」ということを知っておかねばなりません。    
 

歯は、とかく単一の「モノ」として捉えられがちです。別の言い方をすれば、歯を大事にしようとする人は、歯だけしか見ていないことが多い。しかし、それで歯を長保ちさせるようとしても、うまくいかないはずです。
 

ものを噛み切り、磨り潰す。これは歯の最も重要な役割ですが、歯だけが果たしている仕事ではありません。顎、顎関節、舌、歯茎、筋肉や神経などの「連係プレイ」です。口の機能に関わっている器官は歯以外にもたくさんあって、それらはみなものを食べるときに連動しているわけです。
 

歯科の世界では、口の機能に関わる器官をひとまとめにして「顎・口腔系」といいます。「顎」や「口腔」は一つの「系(システム)」して連動しているから、「顎・口腔系」というわけです。連動しているわけですから、どこか一箇所に問題が発生すれば、全体が影響を受けます。

したがって、歯を大切にしようと思ったら、顎・口腔系全体を大切にしなければなりません。歯だけに着目して「どうすれば長保ちさせられるか」と考えるのは、「木を見て森を見ず」です。

では、顎・口腔系を大切にするには、具体的に何をすればいいのでしょうか。これを説明するにあたっては、「顎・口腔系の動き」を知る必要があります。

林裕之

『いい入れ歯・悪い入れ歯』 | 「死ぬまで自前の歯」という人はほとんどいない

さて、それでは歯はどれくらい保つものなのでしょうか。

人類学の世界では、歯の寿命は50年と言われています。生まれてから50年ほどすると、歯槽骨という「歯を支えている骨」がだんだんと吸収してしまい、歯を支えきれなくなる——。それが人類学が教える歯の一生です。

歯そのものも使っているうちに磨り減っていきますが、完全に磨耗するより先に、土台のほうがダメになるというわけです。
厚生労働省による調査では、歯の平均寿命はおよそ五九年です(平成十一年「歯科疾患実態調査」)。一番長保ちする下顎の前歯で六六年、一番早く抜ける上下の第一大臼歯で五〇年。それが、日本人の歯の平均寿命です。

先ほど述べたとおり、最後まで残るのは前歯です。永久歯の前歯が生えるのは六歳頃で、一番長保ちする下顎前歯の平均寿命が六六年ですから、七二歳になったときにはすべての歯が抜けていることになります。

ここでお気づきになった人もいると思いますが、歯の寿命は、肉体の寿命ほど長くはありません。平成十四年の時点で、日本人の平均寿命は男性七八・三二歳、女性八五・二三歳です(厚生労働省「二〇〇二年簡易生命表」)。つまり、大多数の人たちは死ぬ前にほとんどすべての歯を失うのです。

もちろん、上で挙げた数字はいずれも平均で、歯の寿命、肉体の寿命には個人差があります。しかし、個人差を含めて考えても、「死ぬまですべて自前の歯」という人はまずいません。

事故や病気などで若くして亡くなった人を除けば、皆無と言ってもいいでしょう。その意味では、歯は「消耗品」です。

歯の平均寿命についてもう一つ言えるのは、平均より早く抜け始める人も多い、という点です。
「四〇歳を過ぎた頃から体力がガクンと落ちた」

そんなボヤキをよく耳にしますが、歯の喪失が「体力がガクンと落ちる」のと時を同じくして始まるケースは少なくありません。

右で紹介した「歯科疾患実態調査」によれば、四〇歳から四四歳までの人が失っている歯の本数は、平均で一・八四本です。つまり、「四〇代ですべて自前の歯」という人は、平均的な存在ではないのです。

五〇歳を過ぎると、喪失歯の本数はさらに増えます。五〇歳から五四歳までの人が失っている歯は、平均で四・三七本。喪失歯が四本以上になれば、大半の人が入れ歯を使うことになるはずですから、「入れ歯の使用」という観点から見れば、五〇代前半は一つの節目と言えるでしょう。

林裕之