父の咀嚼システムに

父の場合、咀嚼システムは六五年という長い時間をかけて作られたものでした。これを破壊したのが、合わない入れ歯です。人間には適応能力がありますから、噛み合わせの変化にも、適応していくことができます。合わない入れ歯でも、ある程度は慣れることができる。しかし、適応には限度があります。

合わない入れ歯によって、父の咀嚼システムは少しずつ狂っていきした。やがて適応能力が限界を超え、症状が出てきた。ですから、歯茎の腫れをとり、新しい入れ歯を作っても、根本的な解決にはなりません。狂ってしまった咀嚼システムを、正常なレベルに戻さなければ、また同じようなトラブルが起きる可能性があります。

だからバランスよく噛む訓練をしたのですが、時間をかけて治療を続けていったところ、抜けてしまった毛が徐々に生えてきたのです。

咀嚼も歩行運動と同じ

咀嚼も歩行運動と同じです。人はすべて生まれてから死ぬまで「食べる」というトレーニングを続け、その人固有の咀嚼システムを作っていきます。ステーキを食べるときには強く噛み、豆腐を食べるときにはごく軽く噛む、という使い分けができるのも、無意識のうちにトレーニングが続けられてきたからです。

ものを噛むときの顎の動かし方、舌や歯茎の使い方、あるいは咀嚼の回数などは、人によって違います。AさんにはAさん固有の噛み方があり、BさんにはBさん固有の噛み方があって、まったく同じ咀嚼システムというのは存在しません。

父の場合、咀嚼システムは六五年という長い時間をかけて作られたものでした。これを破壊したのが、合わない入れ歯です。

咀嚼システム

ものを食べるときに使っているのは、歯と顎だけではありません。歯茎や舌、口のまわりの筋肉、顔面の筋肉なども使います。これらを総合的にどう動かすか、という脳の働きも必要不可欠です。つまり、ものを食べるときには、さまざまな器官が複雑に連携しているのです。

この「複雑な連携」を、咀嚼システムといいます。システムというくらいですから、一夜にして作られるものではありません。長い時間をかけて、徐々に作られていきます。歩行運動に喩えれば、ヨチヨチ歩きしかできなかった赤ちゃんが、転びながら歩き方を覚えていくようなものです。

人間は歩くときに「右足を前に出したら、次に左足を出そう」などとは考えません。歩くスピードを変えるときも、怪我をして足が痛くなったときも、無意識のうちに歩き方を変えられます。これは、赤ん坊の頃から「歩くトレーニング」を重ねてきたからです。「右足と左足を交互に出さなければ転ぶ」ということは、実は膨大なトレーニングによって覚えたことなのです。

噛み合わせの狂い

噛み合わせの狂いは、もちろん口の中にも悪影響を与えます。父の「最後の5本」がダメになったのは、合わない入れ歯によって噛み合わせが狂ったからです。

噛み合わせに問題がなかったときは、ものを噛んだときの応力(抵抗力)は、歯列全体にバランスよく分散していました。ところが、合わない入れ歯を無理して使っていたために、応力が特定のポイントに集中するようになった。その結果、歯と歯茎が脆くなってしまい、虫歯や歯周病が進行したのです。

すぐに発見していれば、歯を保たせることができたかもしれません。しかし、症状はかなり進んでいて、グラグラになった歯を治療によって安定させるのは不可能、というレベルにまで達していました。

治療はボロボロになった歯を抜き、歯茎を正常に戻すところから始めました。腫れている歯茎に合わせて入れ歯を作っても、うまく入るはずはありません。そこでまず、歯茎を元に戻したのです。

同時に、バランスよく噛む訓練をしました。父には「偏った噛み方」が身についていましたから、これをトレーニングによって修正していきました。

腰痛、膝痛、骨格系の歪み

骨格ゆがみ図

偏った噛み方による悪影響は、骨格系に及ぶこともあります。具体的には、腰痛や膝痛などが起こるケースがある。これも原理は同じです。

たとえば、右側の歯が痛くなって、左側だけで噛むようになったとします。左側だけで噛んでいれば、左側の咀嚼筋が強くなります。

左側の咀嚼筋が強くなると、その力で左側の頬骨が引っ張られます。引っ張られた頬骨は収縮して骨密度が上がり、短くなります。すると左側の強い筋力に引っ張られ、頭が左側に傾くようになります。

頭が左に傾いていたらバランスが取れませんから、無意識のうちにそれを補整しようとして頭を右に起こすようになります。そのときに首や肩の筋肉に負担がかかり、頭痛や肩こりが起きてくるわけですが、右に起こそうとしてもバランスが取れず、少し左に傾いたままになるケースもあります。

 「頭の傾きがやがて背骨の彎曲、骨盤の歪みにつながりその結果、肩こり、腰痛、膝痛を起こしたとしても不思議ではありません」骨格系が変化すれば、そこに付随している筋肉も不規則に引っ張り合うようになります。

筋肉には血管や神経が走っていますから、血行障害、神経の圧迫、ホルモンバランスの乱れなどが全身に起こります。

もちろん、こうした一連の変化は、画一的に起こるわけではありません。「おおまかな流れではこうなる」という話で、噛み合わせのバランスが悪くても、大きな問題が生じないケースもあります。しかし、たかが歯、たかが入れ歯と考えるのは危険です。噛み合わせは、人体にとってきわめて重要なファクターなのです。